<掲載情報>
「BLINK」
作 フィル・ポーター
翻訳 大富いずみ
演出 荒井遼
出演 : 西村成忠 ・湯川ひな /
広田亮平・黒河内りく
2022年6月24〜7月3日 あうるすぽっと
美術 牧野紗也子
照明 榊美香
音響 小林遥
衣装 伊藤正美/上杉麻美
運搬 銀次郎運送/マイド
制作協力 MAパブリッシング
票券 サンライズプロモーション東京
版権コーディネート シアターライツ
映像収録 西尾智仁
舞台監督 深瀬元喜/木暮拓矢
演出部 黒崎花梨
宣伝美術 宇野奈津子
制作 吉越萌子
主催 幻都
「眼差しのドラマ」
本作との出会いはコロナ第一波の時でした。人と人との距離を絶妙に描いていると思いました。孤独な男女が自分の存在理由を探していく話でもあり普遍性があると感じました。近くに行きたい、けれど行けない。近すぎると困惑するけれど、遠すぎるのは困る。コロナによって「孤独」というものの見え方が少し変わった今、作品が書かれた当時よりテーマがビビッドになったのではないかと思います。非常に小さな出来事を描いていますが、どの瞬間も尊い一瞬。実はとてもドラマチックな事でもある。みんなどこか変だし、傷ついたり立ち直ったり、くっついたり離れたりしながら、じたばた生きている。作者が描こうとしている本質が鮮明に伝わるように試行錯誤しながら今、稽古しています。
また、この作品は「目」がモチーフになっています。父が娘に向ける眼差し。一眼レフカメラでの監視。ベビーモニター。そして巨大観覧車のロンドンアイ。看病。タイトルの『BLIK』とは瞬きの事です。主人公の男女は、見る。見られる。という関係によって出会います。「眼差し」の意味が繰り返し問い続けられます。そして、芝居は劇場で観客の皆様の眼差しを受けます。見る事と見られる事の幸福な相互関係が演劇。そこにも一瞬の出会いがあります。みずみずしい20代の俳優さんたちと観客の皆様との出会いが、幸福なものになったら本望です。本日はご来場頂きありがとうございます。 2022.6.24 荒井遼
写真:阿部章仁
劇評:大橋洋一(東京大学名誉教授)
池袋のあうるすぽっとでの公演、フィル・ポーター『BLINK』(荒井遼演出・大富いずみ訳)、W キャスト:西村成忠・湯川ひな/広田良平・黒河内りくを観ることができた。7月3日まで上演中。 私が観たのは〈広田亮平・黒河内りく〉版だが、優れた演出のため、おそらくどちらを観ても(ま た両方観ても)満足できるものと思う。お薦めの公演である。
はじめに--『愛に関する短いフィルム』
クシュトフ・キェシロフスキーの映画『愛に関する短いフィルム』(1988)を思い出した。同監督 のテレビシリーズ『デカローグ』第6回の拡大版で87分の長くはないが短いともいえないフィル ム。ワルシャワの集合住宅を舞台に、亡くなった友人の老母と暮らす19歳の郵便局員が、向かいの 集合住宅に暮らす歳上の独身女性の部屋を毎夜望遠鏡で覗き見する。覗き見だけでなく、偽の為替 振込通知を女性宅に送ったり、彼女宛ての手紙を隠匿したりと、この若者のすることはかなり悪質 である。そもそも姿をみせることなく一方的に女性を窃視すること自体、女性を所有物として対象化する男 性の優位性を確保するための悪辣で幼稚な行為であり、おまけに直接的ないやがらせ行為も含む卑 劣な行為である(冷戦下のポーランドをはじめとする共産圏国家が、国民を統制監視する監視国家 であったことは決して忘れるべきではない。キェシロフスキーの映画でもポーランドを舞台にした 映画には監視国家のありようが直接的・間接的に影を落としている)。しかしネット上ではこの変 態のクズともいえる若者に対して好意的あるいは同情的な意見が多いのは、日本では男性による女 性抑圧に対して鈍感であることも理由のひとつだろうが、それ以外にも、映画のなかで、この若者 が、覗き見をした者であると自ら名乗り出て、女性の恋人にぶんなぐられることで、一種のみそぎ がすんだように思えてしまうことと、覗き見をされた女性のほうも、この年下の覗き魔の男とデー トまでし、、若者を、自殺未遂に至るほど翻弄し追い込むので、加害者である男性が被害者になっ てしまうことも要因としてあげられる。もちろん加害者と被害者の立場の逆転は、さらなる変容をもたらすことになる。映画の最後(テレビ版ではなかった追加の場面)が素晴らしい。自殺未遂の後、退院して帰ってき た若者宅に見舞いにきた女性は、その若者が覗いていた望遠鏡を自分でも覗いてみる。もちろん昼 間まで、望遠鏡が向けられていた彼女の部屋には、彼女がこちらにきているのだから、誰もいない し、基本的にみるべきものはない。しかし、望遠鏡の向こうに、その若者が覗き見していた景色 が、彼女にはみえる。ドゥルーズのいう「時間イメージ」である。すなわち現実の出来事ではな く、想像のなかの出来事――彼女が想像する、覗き見する彼の視界――でありながら、ただの想像 ではなく、観る者の真実と実相を伝えるリアルな出来事の映像である。それはまた彼がみていた彼 女の姿、あるいは彼にみられていた自分の姿であり、その彼女の姿を通して、それをのぞきみる彼の姿も見えてくる。現実と幻想、客観と主観、自己と他者とがまじりあった映像(ドゥルーズのい う「時間イメージ」)で映画は閉じられる。 いいかたをかえれば、彼女が望遠鏡で覗いていたのは、向かいの集合住宅の誰もいない彼女自身の 部屋ではなく、その青年の心のなかであり、ひいては彼女自身の心のなかを除くことにもなったの である。
具体的にいえば、転機となるのは、恋人とのトラブルのあと一人自宅で泣いていた彼女の姿を、こ の若者が見たことによる。そのときこの若者は、安全圏から女性の私生活をのぞき見する窃視的欲 望から脱却して、ひとりの女性の悲しみに寄り添い、その孤独を共有したのである(同一化の徴候 は、もちろんそれ以前からあって、彼は彼女の自宅でのふるまいと同じことをしていた――彼女が 食事をするとき、彼もまた望遠鏡を除きながら食事をするのである)。繰り返すが、この時の彼は 自分が観られることのない安全圏から女性の生活を監視して面白がっている男性優位者ではなくな っている。望遠鏡を通して、もはや観られる者、観る者との距離がなくなり、行為遂行的にも、情 動的にも、一体化する。孤独なふたりが、窃視行為を通して、一体化してしまう。それは一方的な 所有havingの愛(だがそれは暴力的・犯罪的にもなりうる)ではなく、相互的な所有の愛、いうな れば同一化beingの愛である。このむしろ顧みられることの少ない同一化の奇蹟、それこそが真の 愛ではないかと映画は告げているのである。
今回『BLINK』の舞台をみたあとで、キェシロフスキーの映画を思い出して、こんなことを考え た。キェシロフスキーの映画『愛に関する短いフィルム』は、有名な映画だから、私と同様に思い 出す人は多いことだろう。
さらに、二つの集合住宅の部屋と、郵便局くらいが主な舞台の『愛に関する短いフィルム』は、 『BLINK』の今回の舞台構成をみると、このかたちで、この映画を舞台化できるかもしれないとい う空想も広がるし、都会に暮らす孤独な男女の窃視行為を通してのふれあいと愛は、『BLINK』の テーマそのものでもある。ただし、同時に私は、映画以外のことも、思い出していたというか思い 浮かんできた。それはコロナ禍におけるリモートの愛である。
1. リモート愛
1か月前に、生まれてはじめて宝塚の舞台のライブ配信を観た。宝塚劇場の舞台ではない別の劇場 の公演なのだが、その配信ではミュージカルのあとの短いレビューのなかで、最後のフィナーレ直 前に演者が数人舞台に登場して観客向けに短いフリートークを繰り広げる時間があった。ライブ配 信であることを意識している演者たちは、しばしばリモートで観ている観客に声を張り上げ、手を 振りながら呼びかけていた。
舞台にいる演者にとっては、目の前にいる劇場の観客が一番近く、リモート配信で観ている者は、 それこそ海王星の彼方にいるような遠い存在であろう。しかし配信でみていた私のような者にとっ ては、カメラが彼女たちの顔をアップでとらえるので、画像的には、劇場の観客よりも近い。しかし距離的には私たちは海王星にいる。観る者と観られる者との関係、演劇や映画において、その生成の根幹にあるこの関係は、物理的距 離や心理的距離のみで測定できるものではない、逆説的で複雑な交差関係のなかにある。そのこと を、いま現在のコロナ過におけるリモートワークのありかたとか、学校などにおけるリモート授業 のありかたを通して、私たちは再考と再認識を迫られているではないだろうか。
たとえば、そのような中で、昔からある遠距離恋愛はどうなるのか。遠距離恋愛、あるいはリモー ト恋愛というは、続かないというが定説であろう。たとえどんなに頻繁に連絡をとりあっていて も、直接的な対面のもつ経験値にはかなわないし、近くにいないことに対する不安や不満がもたら す空虚感は、恋愛関係の腐蝕を招くことになる。しかし、では距離を詰めればよいか、心理的物理 的空白を可能なかぎり作らないようにすればいいかというとそうでもなく、近接関係あるいは直接 接触がもたらす圧迫感や飽和感もまた愛を衰退させる要因となる。もし四六時中夫婦でともに働い ていたら(とはいえそれは異例なことではないのだが)、離婚の可能性や背信の可能性は高くな る。現前と不在のバランス、その適切なバランスのなかに愛ははぐくまれるとするなら、少なくと も、現前だけを、あるいは不在のもたらす効果だけを、排他的に重視するようなかたちで愛のかた ちを測定するべきではないことになる。リモート関係は、愛を終わらせるだけでなく、愛を育むことにもなる。リモートワークは仕事を停 滞させるだけでなく仕事を効率化することもある。コロナ禍によって、私たちは距離のもたらす破 壊的効果と創造的効果、このふたつのバランスを、それこそ歴史上類をみないかたちで検討しはじ めているのかもしれない。
もし『BLINK』 をみて、私たちが思い起こすとしたら、まさにこのことであろう。フィル・ポー ターの2012年初演のこの作品は、当時としても評判の舞台だったようだが、演出の荒井遼氏が述べ られているように、10年後の2020年の今において、「作品が書かれた当時よりもテーマがビビッ ドになったのではないか」。もちろん、そのテーマは、パンデミック下における社会関係のロックダウンや距離関係を常態化す る社会的変容現象を通して追究されるのではくて、女性の部屋を覗くという変態スケベ野郎の窃視 行為を通してである(この意味からもキェシロフスキーの映画との通底性はある)。
2.観るか観られるか、から、観る/観られるの交差性へ
これから劇をご覧になる方がいると、ネタバレというほどのどんでん返しがあるわけではないとし ても、展開の先がみえてしまうと興を削がれることにもなりかねないので、内容についてあまり触 れないでおくが、舞台は、最初、若い男女が追いかけっこをしているところから始まる。この男女 を結びつけることになったのが男性の窃視行為であるため、それが女性を支配下に置こうとする一
種の暴力性を秘めているのではと観客が思い惑うことのないよう、先手をうって、二人の関係が追 う者と追われる者、その交差と反転であり、そこには犯罪性よりも愛があることを前もって知らせ るという演出上の工夫であろう(原作のト書きには、それがないために)。
舞台に登場するのは二人の若い男女。この二人の語りと演技で最後までもっていく。最初は男性の ジョシュの語り。つぎに女性のソフィーの語り。そしてこの交互の語りは続く。結局、このふたり がどうやって出会うことになるのか、そこまでの経緯を知るために観客は耳をすますことになる。
二人の語りには語り口に独特のものがあり、また生い立ちから現在に至るまでの物語もユニーク ――とはいえ、うらやましいと思えるような内容ではない。また語りだけではわかりにくかった り、印象が薄くなったりすることを恐れてか、一人が語っているときに、もう一人が別人になって 語りに割り込んでくる。たとえばソフィーが会社を解雇されたときの話をしていると、ジョナが、 ソフィーの同僚(名前は奇しくも同じソフィー)となって、解雇をソフィーに告げることになる。 一瞬、ジョナが、女性になってソフィーに語りかけてくるので、何が起こったのか観ている側が戸 惑うかもしれない。台本も、観客の戸惑いを想定しているのだが、それでかまわないとも書いてあ る。とまれ観客の認識は柔軟だから、戸惑いのあとには、つまり時折もう一人が誰か別人となって 話にわりこんでくるらしいとわかったあとには、もう驚かなくなるだろう。
ちなみに、原作では、入院中療養中で、体にいろいろな管がとりつけられているソフィーが、管が はずされていないまま、別人となってジョナの会話のなかの再現場面を演ずることになるが、さす がに今回の演出では治療用の管をさしたまま別人に変ることはなかった。これは美意識というより も、劇の進行上の都合で、そうなったのであろう。
ふたりの話から徐々にみえてくるのは、母親を亡くし残されたお金でロンドンで一人暮らしをはじ めるジョナと、父親を亡くし父親のいたフラットを貸し家にして暮らし始めるソフィが、どうやっ て知り合いになるのかが関心の重要な対象となるだろうということだ。
ジョシュは、もといた宗教的コミューンを離れロンドンにやってくるが、ロンドンに知り合いはい なくて、孤独な一人暮らしを余儀なくされる。いっぽう会社を解雇されて、最愛の父親を亡くした ソフィーは、自己の存在感の薄さに悩みながらの一人暮らし。ただしジョナが借りることになった フラットは、ソフィーの父親が暮らしていたフラットとなる。そのジョシュのフラットのすぐ上の フラットにソフィーは住んでいる。これで二人は出逢うかというと、そうでもない。不動産会社を 通して契約したジョナは大家であるソフィーには会っていない。いっぽうソフィーのほうは、階下 のジョシュのところに、ベビーモニターの端末のモニターを匿名で送りつける......。
ジョナのほうは、差出人のないモニターのスイッチを押すと、モニターに若い女性の姿が映し出さ れる。そのためジョナのほうは、そのモニターに窃視犯のように魅了されてゆく。
この大胆さに観客はうなるほかはない。これは自らの存在感のなさに苦しむ女性が、自身が観られ る存在になれば、彼女を観る者によって、彼女自身の存在が与えられると考え、匿名でベビーモニ ターを送ったわけであり、自分を見るように彼女は自分から誘っているのである。最近というか近 年のリモート会議の用語でいうと(私がそれを聞いて最初戸惑ったのだが)、彼女は、自分のプラ イベート映像(プライベート会議)に男性を「招待」しているのである【なおイギリスでの上演で は、ほんとうにベビーモニターのモニター端末を使っているのだが(つまり大きさはスマホの半分 くらいのもの)、今回の上演ではベビーモニターではなくタブレットだった。もちろん、そのほう がわかりやすい。本物のベビーモニターだったら、それが何であるかわからない観客がいてもおか しくないのだから】。
このベビーモニターは、ソフィーの父親が彼女を観察監視するために使っていたもののようだが、 父親がすい臓がんで入院後は、彼女が病院での父親の様子を見るために使ったものである。父親の 死後、彼女は、モニターを階下の間借り人というか借家人に匿名で送る。すると間借り人であるジ ョナは、モニターが映す若い女性がどこの誰なのかわからないまま、毎日、観察しはじめる。ジョ ナは、その女性が何も気づかずに、自身のプライベートな映像を、モニターにさらしていると思い 込んでいて、超越的な境地から、その映像を楽しんでいるのだが、実は、彼女は自分が覗き見され ていることを知っている、というか覗かれるよう仕向けたのである。招待したのである。
これは観る観られる関係を単純に能動的姿勢と受動的姿勢として区分するのではなく交差させてい る中道態的姿勢であろう。主体/主語がみずから働きかけるのが能動態であるのに対し、主体/主 語が外部から働きかけられるのが受動態とするなら、主体/主語が、みずからへの外部からの働き かけを、みずからの手で操作し仕組むこともある。この時、主体は、みずからを受け身にするよう に能動的にはたらきかける。これは能動態でもあり受動態でもある中間態あるいは中道態(middle voice)といえる。もちろん、能動態・受動態の二分法を崩さないとすれば、中道態は、能動態のひ とつともいえるのだが、一般には受動態のひとつに分類されるようだ。
この劇に即して考えれば、会社を解雇され友人もおらず父親とも死別して、幽霊か透明人間である かのように誰からも顧みられない、あるいは観られることのないソフィーは、階下の借家人を、彼 女自身を窃視する人間に仕立て上げることで、みずからの存在を確保することになった。私は、誰 か一人でもいい、その人物に観られることによって、自己の存在を確保できるのだから。
ここから、言えるのは、彼女のこの試み、せつなくもまた救済的な希有な試みが、都会に暮らす孤 独な彼女を窃視的リモート映像を通してもうひとりの孤独な若者と遭遇させるとことで、物語の原 動力となっていること、しかも、たんにロンドンに暮らす孤独なふたりの若者たちの物語にとどま らず、コロナ禍での自粛とリモート活動を余儀なくされる私たちの閉塞的な状況ともどこかでつな がっていると思わせることである。しかも観る観られるの視線をめぐる中道態的事態は、統御され 招待された観客の視線にさらされる人間の行為でもあり演技でもあるという二重性ともつながって いる。二人の若者の行為は、演劇そのもののありように関するメタコメンタリーにもなっている。
フィル・ポーターの『BLINK』の深いたくらみ(良い意味での)には、唸るほかはなかった。
3. 所有の欲望から同一化の愛へ
『BLINK』のなかで、若いジョナがすることは、覗きであり、覗きの対象である女性の居場所が わかってからは、ストーカーにおよび、女性宅への住居侵入までしている。しかし彼の行為の犯罪 性・違法性が、許されることはないとしても、不快なものにならず、嫌悪の対象とならないのは、 ひとつにはソフィーが実は密かに自ら仕組んだことであって、ジョナがソフィーの見えざる手によ って翻弄されているのであって(6月29日の記事参照)、ソフィーの策略がなければジョナがそこ までしないだろうと思われるからである。
またいまひとつに、ジョナがソフィーの生活をのぞき見する道具となったのが、ベビーモニターで あって、覗きとか監視よりも、介護や世話というケアにむすびつく器具であって、そこに攻撃性や 暴力性など犯罪とむすびつく要素が感じられないということもあげられる。ベビーモニターという ものを私は使ったことも、そもそも実物を手に取ってみたこともないのだが、モニターそのもの は、正方形の画面をもつ、スマホの半分くらいの大きさの器具のようだ(英国での上演資料画像か らも、それが確認できる)。今回の舞台のようにタブレットを使うことは、モニターはスマホとか タブレット・パソコンに接続もできるだろうから、おかしくはないのだが、本物のベビーモニター だと観客(私のような)にはそれがなんであるかわからなかったと思うので、妥当な選択でもある と思う。おそらくベビーモニターが、日本よりも普及している英国での上演では、本物のベビーモ ニター越しの覗きは、ほほえましさを喚起していたかもしれない。そしてもしそうなら、ジョナの 行為は、こうして完全に解毒化される。
だが、最大の理由は、ジョナが、ソフィーを性的な窃視対象とするのではなく、同一化の対象とす ることだろう。覗き見からストーカーへといたる過程から推察できるのは、若い女性のプライバシ ーに土足で入り込み、無防備な状態の彼女の秘密を掌中に収めることで、彼女をコントロールしよ うとする(たとえ現実にコントロールするのではないとしても)、そうした所有の欲望だが、ジョ ナが劇中で実際に行なうのは、想像のなかで、窃視対象である彼女と共有する空間の開拓であり、 彼女の経験をみずからの経験にする、あるいは同じ経験を彼女と共有することである。
彼女の居場所がわかったあと、彼女の後を付け回すのだが、それは彼女と同じ経験を共有する試み なのである。彼女と同じ公園のベンチに座り、彼女の乗る同じバスに少し離れて座り、彼女が訪れ る美術館を、彼女と一定の距離をとりながら見てまわる。そこにあるのは、彼女を監視して統御す る所有するおぞましい欲望ではなくて、彼女との一体化あるは彼女との共存を求める願い、同一化 の願望であって、それが彼を変態的犯罪者性から救っているともいえる。また、そうなるのは、二人が都会に暮らす孤独な若い男女であり、すでに孤独を独自のかたちで共 有していて、この二人が奇しくも観る/観られるという関係性において遭遇したとき、そこに愛が生まれることは、まあ、自然な成り行きなのかもしれない。というのも、そもそも自分が観られる ように仕組んだのは、彼女自身であって、彼女がそうしたことの動機には、彼女がかかえていた深 い孤独が影を落としていた。つまりこの若い男女が、惹かれあう素地はすでにできていたのである ――孤独をとおして。
結局、ソフィーが、自身を観られるように仕組んだということは、彼女が知らないうちに尾行され る被害者ではなくて、尾行されていることを知っている行為者であることを意味する。彼女は、ス トーカー行為に誘うというか、ストーカー行為をあおっている。ジョナのほうは、そうとは知らず に、彼女との経験の共有を求めて、彼女に寄り添おうとしている。それはまた、二人の関係が、追 いかけられ、逃げたり、また逆に追いかけたりするという追う者/追われる者との関係であるとも いえる。演出の荒井遼氏が、この芝居には「目」のモチーフがあると明言しているように、目のド ラマ、あるいは視線のドラマともいえるこの劇は、同時に追跡のドラマでもある。そのことがよく わかるのが、演出の荒井氏が付け加えた、二人の男女の追いかけっこのシークエンスである。視線 のドラマと追跡のドラマ。このふたつは、絨毯の表の模様と裏の模様にように、同じ構図の二つの ヴァージョンである。
もちろん視線のドラマにせよ、追跡のドラマにせよ、そこには、演劇全般についての深い省察ある いは演劇についてのメタコメンタリーがあることはいうまでもない。そしてそれは暗闇のなかから 身をひそめてじっと見つめる者(観客のこと――とはいえ舞台からみると観客席は闇に包まれてい るのではなく、けっこうよく見えることもあるのだが)は、第4の壁を通して、人物の秘められた 心のうちや行動をのぞきみるという窃視的欲望だけにとりつかれているのではなく、目の前にみて いるものに、自らを寄り添わせたり、時に同一化したり、そこを基軸に共有できる演劇空間を創造 したりという、同一化の欲望にもとりつかれている。観客は人物の秘密が暴露されることの快感に 酔いしれるだけでなく、人物の秘密のなかにみずからをすべりこませることの快感に酔いしれるこ とも多い。観客は人物の下に見るだけでなく、上に観ることもあるのだ。
このことは距離の問題とも関係する。観られる者たちの秘密に肉迫したい、あるいは相手を対象化 しコントロールしたいという欲望、この窃視的欲望のめざすところは距離の消滅である。できれ ば、相手に直接接触し相手を統御すること(最終的に殺したりレイプしたりすること)のためにも 距離を消そうとする所有の欲望に対して、同一化の欲望は、それこそ距離を消滅させたい(同一化 のために)欲望の最高度の発現と思われるかもしれないが、同一化のためには距離が必要となる。 また、この同一化が、崇拝的同一化、憧れによる同一化であるのなら、距離を介在させること、それも大きければ大きいほど効果があがるように距離を介在させることは、必要条件となる。
『BLINK』のなかでは、観る観られる関係にあった二人は、最終的に直接出逢う。だが、それは終わ りのはじまりであり、距離がなくなったことによって、愛がさまたげられるようなところがある。 結局、愛の再開のためには、再び距離をとってベビーモニターでの監視行為が必要となったのである。